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マリーナ甘夏ファームについて
マリーナ甘夏
ファームについて
Marina Amanatsu Farm
マリーナ
甘夏ファーム
私どもの想い
マリーナ甘夏ファームは、海と山に囲まれた三重県尾鷲市の山の上、日本の原風景ともいえるような、昔からの自然に囲まれた静かな場所にあります。
マリーナこと柳川めぐみは、そんな自然溢れる素晴らしい場所で甘夏みかん農家をしていた両親の元に生まれました。
両親と兄が一生懸命育ててきた甘夏みかんを、もっともっとたくさんの方に食べていただきたい、甘夏パワーを世界に広めていきたい・・・そんな想いで、2015年4月より甘夏みかんの栽培に取り組んでいます。
大自然の恵みを余すことなくご提供したい
日々、甘夏の木と向き合っていると、甘夏の木本来が持つエネルギーの大きさに驚きます。人間が手を加えなくても、大地からの栄養をしっかりと吸収し、太陽の光で光合成をして、りっぱな甘夏みかんが育つのです。
収穫し、もぎたての甘夏みかんを食べてみると、ジューシーでさっぱりしていて、それでいて味はしっかりと甘酸っぱい♪
初めて自分たちで栽培した甘夏を食べたとき、「自然の美味しさってこんなにシンプルなんだな」と驚きました。
甘夏の木も私たちも同じ地球の一部
甘夏みかんで元気な地球に
マリーナ甘夏ファームを始めた当初より、ファームに入ると必ず甘夏みかんに声をかけています。
甘夏みかんの木一本一本と対話をしながらの栽培はとても楽しく、また自分自身も癒されるとき。朝、甘夏みかんのお世話をしに畑に入ると、元気が出てくるのを感じます。まるで地球のパワーをチャージしているような、とっても贅沢な時間です。
都会から戻ってきたら、甘夏の木に抱きついてパワーをもらいます。心と体の浄化をしているのでしょうか、元気になるのです。甘夏みかんの持つ生命力は凄いなと感じる瞬間です。
日頃、お仕事に家事に勉強に・・・、少しお疲れ気味の方にはぜひ召し上がっていただき、元気になっていただきたいと思いながら毎日甘夏みかんを育てています。
マリーナ甘夏物語
公務員だった私ども夫婦が一念発起し、父がのこしてくれたマリーナ甘夏ファームを再建するまで、たくさんのことがありました。
父の決断から始まった
甘夏の栽培
私、マリーナは千葉県で生まれ、1歳のときに父の故郷である尾鷲市に家族で引っ越ししてきました。
それまで父は、千葉県で航空会社(農業部門)の仕事をしていました。
数年後、父の生まれ故郷でもある三重県尾鷲で「山を開拓して甘夏みかん畑をつくる」というプロジェクトが発足。
尾鷲は温暖な気候。気温も高く、雨も降り、南斜面なので、甘夏みかんの栽培に適していたのですね。
航空会社(農業部門)を続けるか、尾鷲に戻って甘夏農家を始めるか・・。
両親の「故郷に戻ってきてほしい」という願いもあり、父は航空会社を辞めて農業を選択。三重県尾鷲で農地を購入し、畑をつくることを決めたのでした。
とはいうものの、もともと畑があったわけではなく、まずは山を開拓することから始まりました。
畑一面、石・岩だらけ。シャベルカーを使ってもつめが折れるくらいの巨石ばかりで、それはもう、毎日の作業は大変なものでした。
農業の大変さを実感
当時、私はまだ幼稚園に通うくらいの年齢でした。
尾鷲の実家は甘夏畑のすぐそば、山の上にありましたので、町まで降りて幼稚園・小学校・中学校に通うのに片道6km、往復12kmを毎日歩きました。
結構な距離を登ったり降りたりする山道は、子どもにはとても大変だったことを、いまでも覚えています。
学校を出てやっと家に着いても、休むひまなく家業を手伝う毎日。
甘夏の木を植えても実が成るまでは数年かかりました。
その間、収入を得るために養鶏も始めて家計をつなぐ毎日・・・それでも生活はとても大変でした。
いま思うと、ドラマ・昭和版の「おしん」のような生活・・・。
宿題もできず、夜は遅くまで働き、朝も早く起きて・・・まだ子どもだった私は、それがものすごく嫌でした。
それからようやく、養鶏をやめて甘夏みかんの栽培一筋でやっていくことができたのですが、みかんの栽培はとても大変でした。
冷害で甘夏が凍ってクレームになったこともありますし、育てるのに有機肥料や農薬が決められた量必要なので、費用もかかる。お金を借りても返せない・・・。当時はいまのように、無農薬栽培の選択などありえないような時代でしたね。
とにかく、子ども心に、農業って大変なんだなぁと思っていました。
農業から離れ、保健師の仕事
兄が父の甘夏農家を引き継ぎ、私は家業から離れて保健師の仕事を選びました。
学生時代も農業が大変で、社会人になっても働いて得た収入から実家の借金を返す生活をしていましたので、農業はしたくなかったということもありますが、その当時からずっと「病気にならないでみんなで仲良く元気で生きること」が私の願いだったのです。
病気になるまえの予防活動がしたい。
健康が一番、いずれは保健師になりたい。
そこで、大学病院で看護師として働き、実践を積み、病気を予防する行政部門の保健師になりました。
みんなで仲良く
元気で生きる
こう考えるようになったのは、子どもの頃の経験からです。
中学校までは積極的に発言することがあまりなくて、どちらかというと、クラスでも目立たないタイプ。
中学卒業後は県外の高校に行くことになったのですが、そこが転換期に。
学級委員をするようになり、後には生徒会、そして、なんとチアリーダーまで!
辛い経験があり、いまがある
子どもの頃は自分をなかなか表現できませんでした。
家の仕事のことがわかってもらえず、クラブに参加せず帰ると責められる。泣いたりうなされたりの日々でした。
そんな気持ちがあったので、高校に入ったとき「クラスの誰一人嫌な思いをせず、全員が楽しい!」という思いが強くあり、学級委員になったように思います。
自分を表現できない子でも、みんなが自分の気持ちを言えるクラスになりたかった。
もしかしたら、健康になるとか予防活動がしたいとか、子どもの頃の辛かったときの経験からきているのかなと思います。
甘夏畑の再建
父と兄が亡くなり、お世話をする人がいなくなったので、甘夏の畑は荒れ放題になってしまいました。
あるとき、放ったらかし状態の木に成っていた甘夏を食べたところ・・・・・。
荒れ果てた畑の甘夏みかんの味は?
これがもう~、めちゃめちゃ美味しくて!
あなたたちはスゴイ!これが本当の甘夏の持つイノチなの!
って感動しました。
「果物が甘くなるのは有機肥料のおかげだ」と、父と兄から散々聞かされていたので、何の手入れもせずに荒れ放題の畑の甘夏がこんなに美味しく成ったことに心から驚きました。
農業、そして、自然の恵みを育てることの素晴らしさにワクワクしました。
畑を立て直したい
一方、保健師の仕事をする中で、いろんな想いと現実のギャップなどから心が苦しくなってきたのも、ちょうどその頃でした。
みんなの幸せのためにと30年やり続けてきましたが、だんだんと疲弊してきたのですね。
また、老父母の介護、実母の病気などに対面、「私の人生、これでいいのかな?」と悩みながらギリギリまでがんばったのですが、早期退職に踏み切りました。
そして、荒れ果てた甘夏みかん畑を、少しずつでもいいから立て直して行こう!そう思っていたら、主人も仕事を辞めると言い出したのです。
こうして、いろいろありながらも、父と兄が育ててきた甘夏みかんの畑を夫婦二人で引き継ぎ育てていくことを決意、いまに至っています。
宇宙が喜ぶ甘夏みかん
やる!と決めたものの、整備するのに1~2年ほどかかってしまいました。
草がものすごくて・・・、見かねた息子が助けに駆けつけてくれたりと、家族に助けられました。家族の存在は本当にありがたかったです。
自然栽培(農薬・除草剤・化学肥料不使用)で育てています
初年度は、なんとか草刈りができたところだけ収穫ができました。
自然の恵み、大地のエネルギーだけで甘夏みかんを育てたかったので、農薬や除草剤、化学肥料は使いません。見た目も不細工で点々がいっぱいでしたが、応援してくださる方は「それ(自然のままの姿)を売りにしたらいい」と。
また、手をかけて育てていくことで、いろんなことがわかりました。
農薬を使わなくても、微生物が安定してくると虫がつかないし、きれいな甘夏が成ってくるのです。
手をかける ⇒ いのちを吹き込む
声かけをして育てると、その木なりに育ちます。
環境の整備がとても大切だなぁと感じています。
なるべく自然の中で、甘夏の木が自分の力で育つのをサポートする気持ちで栽培しています。
自然災害等でけがをしたときは、自分の感覚を大事にして自然のもので手当をしてあげます。
2015年から始めた甘夏の木の栽培、試行錯誤の繰り返しで大変なときもたくさんありましたが、甘夏の木と自分を信じてこれまでやってまいりました。
宇宙が喜ぶ甘夏みかん
手前味噌ですが、自然の恵み、大地のパワー、そしてたっぷりの愛をかけて育てた甘夏みかんは本当に美味しいです。自然の味がします。
日本の素晴らしい季節が育んだ、日本が誇る果物「甘夏みかん」。
精一杯の愛情を込めて栽培し、世界中に甘夏みかんの愛を届けたいと思っています。